癒された軽快な包丁さばき

日本の全国紙は、新入り記者を地方支局に送り込み、5年前後記者修業をやらせる。私の場合は、福島支局だった。私が入社したのは1972年。もろに大学紛争世代である。私の出身大学では1年半もロックアウト(閉鎖)され、勉強どころでなかった。でもそのどさくさ紛れに卒業できた。

幸か不幸か、専攻が中国語で、この年、日中国交正常化がなり、新聞社は日中関係の将来を見込んで、中国語専攻の卒業生を採用した。当時、中国語を専攻するなんて、変わり者扱いされるほど少なかったから、習得レベルより、まず専攻していただけで受け入れたのだから、幸いというべきだろう。

ところが、実際、福島に赴任して、最初の1年の仕事は、サツ回り(警察担当)、毎朝7時に警察署に出勤し、朝昼晩、警察署、県警本部を回り、その合間に、福島市内とその周辺にある警察署に電話を入れて、事件、事故の有無を確認する。記事になりそうな事件があると、現場に直行する。それが日課であり、いまなら何ということもないのだが、学生時代は過激派でも何でもなかったが、それでも「警察は権力の犬」なんて発想は共有していたから、仮面をかぶって、警察官にこびへつらって情報を取るなんて、不器用な私にもとてもできない所業であった。

「辞めたい、辞めたい」の思いで毎日を送っていたから、福島警察署から歩いて県庁に向かう道筋で、大学の先輩で河北新報の記者から、「高井君、自殺でもしそうな顔をしてどうしたんだ」と、声を掛けられたものだ。本当に自殺でもしていたら「過労死」認定を受けていたかもしれない。

そんな私の心を癒してくれる唯一の場が、中華料理店の「王芳」さんだった。もはや50年近く前の話なので、地名も定かでないが、先輩に連れられて行った店は、現在の店とは大違い。カウンターと椅子席を合わせても10人くらいしか入れないスナック風の店だった。それだけ森田(店主)夫妻との距離は近く、会話も弾んだ。誰も知り合いのいない、新米記者にとって本音の語れる数少ない機会だった。

何といってもカウンター越しに見る包丁さばき、中華鍋扱いの軽快さに見入ったものだ。いっそのこと、新聞社を辞めて、王芳に弟子入りするか、なんて思いも浮かんだりした。

ところが、森田さんは、「高井君、君は中国語ができるそうだね。俺に中国語を教えてくれ」と、逆に、“弟子入り”されてしまった。休みの日に、夫妻のアパートを訪ねたりと、お店以外の付き合いも始まった。ただし、中国語の方は、教師の方が悪かった。そもそも教師の方が大学を卒業しただけで、大してできなかったのだから。こういう付き合いのなかで、マスターも、修業時代、あるいは開店直後の苦労話を聞かせてくれた。社会に出るということの厳しさとそれに耐えることの大切さがじわじわ伝わってきた。

かくて、私は新聞社を辞めることもなく、記者時代は二度も北京特派員を務め、天安門事件、鄧小平の死去の号外を書くという栄誉に浴することもできた。

50歳の時、北海道大学から誘いを受け、大学の教員に転じたが、たまたま長女が山形の農家に嫁ぎ、その行きかえり、毎年のように王芳を訪れる機会を得ている。長女の義父は山形で知られる“百姓シンガー”須貝智郎氏であり、彼が毎年、自宅の庭と農園を開放して開く「サクランボ狩りコンサート」の後方支援に、学生を連れて出かける。

修業の地、福島をたずね、学生たちと王芳の餃子を頬張る、私にとって至福の時である。(現職は桜美林大学教授、元読売新聞記者・北海道大学名誉教授)   高井潔司